彼は剣と手帳を落とし、腹を押さえ、膝をつく。
(何これ!痛い通り越して、熱い)
内側から何かが焼けるような、引き裂かれるような激痛が全身を駆け巡る。
「……ぐッ、ぁ……ッ!!」
呼吸が乱れ、喉がかすれる。視界がゆがむ。
これが、魔王化。これは、神の呪い。
(ま、まずい……!)
言葉は届かない。ただ、彼の意思が、断片的に流れ込んでくる。
《止まらない……これ……俺は……》
肌が変色していく。指先が黒く染まり、爪が鋭く伸びる。その身体の異変に、自分自身が怯える暇すらない。
「……ッ、ぐあああああああああああああ!!!!!」
彼の叫びが響く。
それは痛みだけの声じゃない。この「呪い」に、何百年も縛られてきた勇者たちの、 全ての怒りと絶望 を背負った声だった。
背骨が軋み、肉が捻じれ、皮膚の下で何かが蠢く。
(ヤバい!!)
私は必死に彼の身体の内部を巡るが、何もできない。
血液として彼を生かすことはできるが、この変異を止める術は持たない。
——バキ、バキィッ!!
骨が変形する音がする。
背中に、硬質な何かがせり出す感覚。
(……これ……翼!?)
黒く、巨大な翼が背中から生えていく。
視界の端に見える髪が次第に暗く染まり、犬歯が鋭く変化する。
そして角が生え始めたのか何かが頭を突き破る。
この人が倒した魔王みたいな姿へ徐々に変わりつつある。
「ぁ……っ、……ッ!!」
痛みに歯を食いしばり、爪が食い込む。鈍い音とともに、石の床が裂けた。
この人の意識が、少しずつ薄らいでいく。
全身が引き裂かれるような痛みとともに、己を人間を滅ぼす存在に変えるものと必死に抗っていた。
(刺されたときの非じゃないくらい痛すぎる!)
私は、彼の苦痛をそのまま共有しているのに、ただそれを見ていることしかできなかった。
骨が軋む感覚。内臓が煮えたぎるような灼熱感。
体がバラバラに引き裂かれるような激痛が容赦なく蝕んでいる。
(これ、絶対ヤバい……!!)
彼の中に寄生している存在でありながら、彼の身体をどうにかする力はない。
ただ、この状況で何を考えているのかはうっすらと感じ取れた。
《……押さえ、込む!》
激痛の中でなお、彼の強靭な意思は諦めていない。
呪いの力を抑え込むために 精神統一を試みている。
——ゴギッ!!
ひときわ大きく骨が軋む音が響く。
体に現れた角が、背中から生えていた黒い翼も、次第にゆっくりと消えていった。
だが、完全に元に戻るわけではないようで、痛みは残り骨の歪みは消えない。
変異が消えた部分は、皮膚の下で何かが蠢くような不快感が残っている。
(すごい!抑えちゃった……!!)
勇者が顔を上げた際、落ちていた鋼の剣には、変わり果てた青年の姿が映っていた。
片目が、赤い。もう片方は、元の青のまま。
青年はその姿をしばらく見つめた後、目線を手帳へ移した。
《……今起こったことからして、魔王化の呪いは魂への干渉術か……》
彼は、焦りから震える指で手帳のページをめくる。
『呪いは勇者誕生と同時に時にかけられ、段階的に進行する』
《……俺の背にある勇者の証とかいう痣にも納得がいくな》
『第一は痣の発現と強化』
『第二は魔王化と支配』
『第三は神の命令による人類の殺戮』
彼が手帳のページをめくる音が響く中、私も何となく理解できた気がする。
この呪いが、彼の身体と同時に魂そのものにもかかるものらしいというところだけはイマイチだけど。
《呪いの構造は複雑だが詠唱用の文章に直せば解析はできるか?》
(文章?詠唱?)
《魔法自体、魔力を使って世界に理を成立させるものだしな》
(……ここまで炎とか雷とかはなってた魔王も彼どうなってるの?)
《幸い魔力量は多い、詠唱ができれば……》
(あ、異世界テンプレの詠唱省略で最強のパターン)
そして、手帳の記述はさらに続いていた。
『現在第一と第二を繰り返すことで呪いの効力を上げていると思われる』
『第三段階のみまだ行使されていない』
《……要するに、背中の痣は術の魔法陣、歴代の魔王たちは生贄ってことになる》
(呪いって、いかにもな?)
《進行を段階的にしているのも、初期だけじゃ足りない魔力を補うためだろう》
(よくわからないけど、魔法も万能じゃないってことなのかな?)
《生命の定義を書き換えるだなんて無限の魔力をもってしてでもそう簡単にできない》
しかし、一番最後の項目まで読み進めた地点で彼は固まる。
『第二段階まで進めば、元凶の神に逆らえなくなる』
《……ふざけんな、ほぼ積みじゃないか》
勇者の思考が、静かに、しかし怒りを含んで揺らいだ。
だが、ここまで耐え続けていた彼の体力と魔力は限界に近かったのかもしれない。
魔王との戦いでの疲労が抜けないまま、これだけの苦痛を受け続けたせい。
——ガクリ。と、その瞬間、呪いが 一気に進行し始めた。
(まって!まってよ!!)
私も焦りながらも、先ほどとは決定的に違う状況だと感じていた。
今は最低限の情報がある。呪いにどこか穴がある可能性についてだ。
呪いについて必死に考えをめぐらせる。
言葉に戻せば打破できる可能性はあるともいう。
この人の背中にある痣、魔法陣が今の状況を引き起こしているなら?
(この人の体を魂を魔王に変貌させる…なら、待って……これ……)
今、私が彼の血液になっていることを思い出す。
つまり彼の体の一部であると同時に、彼とは別の存在である。
(1つの体に、魂が二つ……)
この呪いは、彼の心身にかかるものらしい。
だけど、私が血液に流れ込んだせいで体に魂は二つある。
せめて魂にかかる意志の支配だけは分担してしまえば……
彼が抵抗する余地を持たせる事ができるのではないか?
(やらなきゃ、なんにもわからない!!)
彼を生かしたのは、魔王になる布石を置いたのは自分。
なら、最後まで責任を取る。
(お願い!! ”私のことも呪いの対象に認識して”!!)
——バキッ!!
この音を最後に一瞬、全ての音が消えた。
張り詰めていた空気が、まるで切れた糸のように弾け、静寂が訪れる。
角は生えかけた状態で消え、翼は完全に霧散していく。
しかし、完全に戻ったわけではない。
片目は青から赤に変わったまま、髪は黒、犬歯が少しだけ鋭くなった。
魔王化は、”中途半端な状態” で止まった。
ドサリ
そして彼の体が、一気に力を失い、地面に崩れ落ちる。
この人はもう、動けない。
本当に、助けられたの?
だけど、確かにまだ、心臓は動いてる。
それだけで、今は十分だった。